人物

将棋LOVE(升田幸三エピソード編)

最近、結構、升田幸三の事に、興味持ちましたとか、ココ部屋利用者の方から、最近、話が持ち上がってますhappy01

ココとしても、尊敬に、値する人について、興味を持ってもらうことは、嬉しいですし、pencil良かったなと思ってますhappy02

さて、今回のテーマは、陣屋事件とは、何だったのかを取り上げてみたいと思いますhappy02

当時の王将戦の規定では、必ず第7局まで指されることになっており、また「三番手直り」といってどちらかが3勝差をつけた時点で半香落ち(平手と香落ちを交互に指す)の手合割で指すことになっていた。この時点で升田(当時八段)が4勝1敗として木村(当時王将・名人)から王将位を奪っており、第6局は升田の香落ちで指される予定だった。

升田の証言によると、対局前日に陣屋旅館に向かった升田が、玄関のbellを何度押しても関係者が迎えに来ず、非礼だと怒って別の旅館へ向かったという。これを知った関係者が升田を呼びにいったが、升田は頑として応じず、対局は実施されなかった。

日本将棋連盟はこの事態を重く見て、升田除名を検討したが、理事会で1年間の対局禁止で、治まった。だが升田の所属する関西を中心とした棋士たちの反発は大きく、一時は関西の理事全員が辞表を出し、将棋連盟の東西分裂の事態も予想された。最終的には木村名人の判断にゆだねられ、升田と理事会双方が遺憾の意を表明し、升田は即日復帰、理事の辞表も受理しないこと、第6局は升田の不戦敗、第7局は予定通り平手で指すことで決着がついた。

旅館関係者の話によると、bellは元々つけられておらず、自分たちの不手際ではないとのことである。事件の真相は不明であるが、時の名人に対して駒を落とすことが、名人の権威を汚すことになるのではないかと考えた升田が、ベルが鳴らないことを口実に対局を拒否したのではないかといわれている。升田は将棋界に入る際、実家の物差しの裏に「名人に香を引いて(落として)勝つ」と書き置きしたといわれている。その一方で、王将戦の三番手直り制度を導入する際において、名人が香を落とされた事態になったら名人の権威に傷が付くと強く反対したという。

後日、升田は陣屋旅館に対し、非礼をわびたのだろう、

「強がりが雪に轉んで廻り見る」

と書いた色紙を陣屋旅館に残している。

最後の詩ですが、どう意味なのか、ココ流に解釈してみましたが、こんな事でないかと、思います。

「強情を張って、意地を通したが、周りを見て、関係ない人まで巻き込んでしまい申し訳ない(取り返しのつかない)事をしてしまった。」と、伝えたかったのでしょうweep

色々調べてみて、この方は、口はわるいが、人間的に優しい方だと、感じるようにおもっています。

追伸、今日お友達で、「棒玉」とは、どんな戦法なのかと、興味もたれた方がいましたので、参考までに、下記のアドレスで、ご参照の程をwink

http://www.geocities.jp/geo9981/k19.html

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将棋Love(升田幸三名言集)

名言集第scissors弾。。。。。今回で、名言集おわるかもcoldsweats01

名人に香車を引いて。。。。と書き記されたのは、、house出の前に母の物差しとは、第1回目にpencilしてましたよねーhappy02

「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」(「この幸三、名人に香を引くまで帰らん」とも)と書かれていたとされる。「香車を引いて」は香落ちでの、対局を意味してますが、これでは意味が通らないので「勝ったら」は「勝つため」の誤りではないかとも推測されています。また、升田は名人の正確な意味を理解せず、地元広島や大阪など、各地に名人がいると思ってたらしいですcoldsweats01。。。。升田名人は、国取合戦で、全国制覇をめざしていたのか。。。happy02

升田名人は、以下の2回その当時のルールで、香車落ちのチャンスに恵まれましたが、結果は、以下の通りです。。。

昭和27年第1期王将戦で、当時の名人である木村義雄と七番勝負を争う。当時の王将戦は三番手直りで、3勝差がついた時点で残りの対局を香落ちと平手を交互に指す制度になっていて、升田は木村に対し4勝1敗とし、続く第6戦を香落ちで戦うことになり、名人に香車を引く対局が実現したが、このときの対局を拒否して不戦敗となっている(陣屋事件)

昭和31年に、弟弟子の大山名人(当時)との王将戦で、再び名人を香落ちに指し込む。今度は実際に対局し、大山に勝っている。「名人に香車を引いて勝つ」を実現した瞬間でもあった。

後にも先にも、名人を相手に香車を引いて対局をしたのは升田幸三だた1人であり、当然名人に香車を引いて勝ったのも升田幸三のみである。

流石に、記録より、記憶に残る棋士升田幸三ですね、只、升田幸三の弱点は、不摂生だとも、聞いておりますcoldsweats01

人の魅力とは、何かと、言われたら、ココは、一言、「完璧じゃないからと、答えます。」

なぜ、上記にpencilいた事を、思いますのは、人は、よい部分、悪い部分があるから、個性であり、また、完璧すぎる人には、その要素が少ないのではと、考えるからです。。。。悪いところは、さしずめ、愛嬌と、解釈してくださいなcoldsweats01

色々、pencilと、長くなりそうなので、やめときます。。。。。。

では、次の記事予告については、当記事の陣屋事件について、pencil行こうと思います。good

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将棋LOVE(升田幸三棋士名言編)

数々の名言を残して、この世を、去った、升田棋士sign01

その中でも「新手一生」という、言葉が、棋士人生永遠のテーマだったと、推測されます。

時折、その節々を残した、発言を調べましたので、紹介しますねーhappy02

  • 私は将棋は創作だと考えている。何はともあれ、一歩先に出た方が勝つ。もし一局ごとに新手を出す棋士があれば、彼は不敗の名人になれる。その差はたとえ1秒の何分の一でもいい。専門家というものは、日夜新しい手段を発見するまでに苦しまねばならぬ。
  • 僕には不利だ、不可能だといわれるものに挑戦する性癖がある。全部が全部成功するわけではないけれどそれが新型になり、新手を生み、つまり将棋の進歩に繋がる。他の人は安全に先を考えるから先輩の模倣を選ぶ。  
  • 棋士は無くてもいい商売だ。だからプロはファンにとって面白い将棋を指す義務がある。
  • 以上の言葉を残しています。未だに、根強い人気の棋士、升田幸三は、今の野球界の楽天の野村監督の発言にも、似てるような感じもしますね。。。。(どっちかというと、野村監督の発言が、升田幸三棋士似ているが、正確だがcoldsweats01

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    将棋LOVE(升田幸三棋士編)

    皆さん、おはようございますnote

    昨日、お話しの中で、升田幸三実力制第4代名人が、好きな方が多く(ココも尊敬していますhappy02)その手の話題で、盛り上がることしばしばですので、ココも当ブログで、定期的に掲載していこうかなとおもいます。

    ココの升田幸三とは、どんな人物かと言われたら、豪快という言葉が、とてもよく似合う方だと思いますhappy02

    では、第1回目は、その人物像について、pencilしていきます。

    1932年(昭和7年)2月に「日本一の将棋指し」を目指してhouse出。その際に愛する母の使う物差しの裏に墨でしたためた「この幸三、名人に香車を引いて…」の文言は、後に現実のものとなる。

    広島市での飲食店やクリーニング店の丁稚奉公など紆余曲折を経て、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。同門の先輩には大野源一、角田三男。そして後輩には、終生のライバル大山康晴がいる。初段でプロになるまで(当時のプロ棋士は初段からだった)が長かったが、初段になってからめきめきと頭角を現す。この頃、阪田三吉から指導を受け「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。

    その後、戦争を挟んで木村と死闘を演じ、木村引退後は大山と覇を競った。第7期名人挑戦者決定三番勝負の第三局(高野山の決戦)において、勝勢であったが手拍子の大悪手を指して、頓死を食らい「錯覚いけない、よく見るよろし」という有名な言葉を残す。将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げた時「たどり来て、未だ山麓」との言葉を残す。

    「魅せる将棋」を大切にし、定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。数々の升田式という戦法を残し、また、功績を記念して、毎年行われる将棋大賞にて、新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」が、升田の没後3年余り経った1995年(1994年度)から設けられている。

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    角(角行)使いの名手であり、特に、自陣から敵陣をにらむ「遠見の角」を好んだという。

    大きな功績を残したが、戦争中に患った病気が元で体調を崩し、現役晩年は休場の年も多く、タイトルなどの実績面では大山に押され、永世名人などの称号は得られなかったが、順位戦A級から一度も陥落することなく1979年に引退した。このため将棋連盟では1988年に升田のために新たな称号を作って「実力制第4代名人」の称号を贈った。

    引退後、羽沢ガーデンにおいて、当時プロに匹敵する実力を持つと言われていた真剣師・小池重明と角落ちで対局し完勝している(大山と当時の名人中原誠は角落ちで負けた)。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した。小池が49手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけ、小池は負けずに「将棋が弱くなっておられると思っていました」と返している。このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。

    ちなみに、将棋年間では、「指してみたい棋士」という全棋士アンケートが実施された際にも(羽生世代の棋士は大山と指したことがあるという事情はあるにせよ)、升田の名をあげた棋士の数は、大山・木村を凌いでいる。

    生涯、新しい事に、挑戦するとは、ホントすごいことですね。普通の人たちは、守りに入る時期と言うものがありますし、それを、維持するので精一杯ではないでしょうか。。。。。ココもそうだがcoldsweats01

    では、次回は、升田幸三エピソード編をpencilいこうかと思いますwink

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